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飯盛山 いいもりやま 2000/05/05他 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下  飯盛山で、16、17才の白虎隊士が自刃。石段を登りきった左手に墓があり、自刃した場所は右手の斜面。墓の前の広場には白虎隊をたたえて、ローマ市民が贈った石柱やドイツ大使館武官が贈った碑がある。階段が急。階段横にエスカレータがある。資料館 お土産やさんで結構賑やか。冬は、階段を雪が覆う。
飯盛山入り口の参道。



白虎隊隊士19人の墓が中央。右側に白虎隊隊士31人の墓がある。

南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)。お釈迦さまに帰依する・・・。

白虎隊隊士19人の墓

白虎隊隊士31人の墓







藩主松平容保(かたもり)公の歌碑。  幾人の 涙はいしに 灑ぐとも その名は世々に 朽ちじとぞ思う みなもとの容保

会津藩殉難烈婦の碑。会津戊辰戦争で自刃、または戦死した婦女子の霊を弔う。

少年武士慰霊碑。白虎隊士と同じ年齢で、県内各地、および新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士を弔う。

吉田伊惣次をたたえた碑。 自刃した白虎隊士遺体は、しばらくの間、風雨にさらされていた。滝沢村の吉田伊惣次は、これを見て、ひそかに遺体を飯盛山と近くにある妙国寺に仮埋葬した。

ローマ市記念碑。昭和3年にローマ市より贈られたもの 一時米軍より撤去の指令があったが文字の削除と、党標の剥奪で終った。
文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げる  古代ローマの石柱とローマの権威を顕わすファシスタ党のマサカりを飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る

佐原盛純作による白虎隊の詩。 白虎隊  佐原盛純  少年団結白虎隊  国歩艱難戍堡塞  大軍突如風雨来  殺気惨憺白日晦  へい鼓喧 震百雷  巨砲連発僵屍堆  殊死衝陣怒髪竪  縦横奮撃一面開  時不利兮戦且卻  身裏創痍口含薬  腹背皆敵将安之  杖剣間行擧丘愕  南望鶴城烟えんあがる  痛哭呑涙且彷徨  社稷亡矣可以巳  十有九士屠腹死  俯仰此事十七年  畫之文之世稍伝  忠烈赫赫如前日  圧倒田横麾下賢

白虎観音

白虎隊自刃の地より鶴ヶ城をみる。 戸ノ口原から一時退却した白虎隊が飯盛山より城下を眺め、猛煙に包まれた鶴ケ城を見た場所。現在復元された天守閣が森の中に見える



飯沼貞吉の墓碑。飯沼貞吉は、白虎隊として、この地で自刃したが、唯一人りの蘇生者となった。

宇賀神堂。五穀豊穣の神である宇賀神(うがじん)をまつる。



白虎隊士19人がまつられている。額の写真は、自刃したが、唯一人りの蘇生者となった飯沼貞吉氏。

さざえ堂。 円通三匝堂 寛政8年平宗喜12代の僧郁堂和尚の考案。六角形三層で登りと降りが別々の道をとおる。さざえの殻に似ていることからさざえ堂という。









白虎清水のところにある慈母子育観音像。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)。祭神 市杵島姫命(いちきしまひめみこと) 市杵島姫命は、仏教の弁才天と習合、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれる。





戸ノ口堰水神社





戸ノ口堰洞穴。今から約350年前、元和年間、猪苗代湖の水を会津地方に引くため郷士八田氏が起工。元禄年間まで工事が続けられ、天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけた。これにより、水田2500haの灌漑に供することができた。使役人夫5万5千人と3ケ年の歳月を費した。白虎隊士中二番隊は、戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが戦いは不利となる。隊士20名は城の安否を確かめようと戸ノ口堰洞穴を通り飯盛山に到着。



弁天さま

子育地蔵尊





霊牛神堂。当山厳島神社御祭神は会津平を守護し給かなう弁財天におわします。風土記にいう  「永徳年間この社造作の始め  童女赤飯を牛に駄して来り 役夫に振舞い食えども盡きず  のち南へ行くこと数十歩にして見えず   その地を牛ヶ墓といい、山を飯盛山とよぶ」  と さる昭和48年癸丑元旦先代山全正成神霊夢枕に現れ   「此の所を掃い清めて弁天様の案内神を祀らん」と告ぐ  謹みて按ずるに霊牛神に他ならず  よって願いを立て御神体を奉じて御神徳を仰ぐものなり。(石碑にかかれている)・・・若い娘と赤飯を積んだ牛がやってきて、神社を造っている人にふるまった。・・・牛と若い娘は、突然に消えてしまった。・・・という意味か?? なんとなく、飯盛山の由来、霊牛神堂、さらには、会津名物・赤ペコまでの存在がわかるような説明におもえる。

参道。厳島神社鳥居。

白虎隊記念館



愛犬クマ 滝沢山中に出迎えの銅像。白虎隊士と離れた酒井峰治(16歳)。幸運にも愛犬クマの出迎えを受け元気になり、クマの道案内により、無事入城し、籠城戦に活躍した。

水戸藩諸生党鎮魂碑。水戸藩士が会津戦争に参戦していた。水戸を追われ諸生党と呼ばれる保守・門閥派は、北越戦線から会津戦争を戦った。

山川健次郎と飯盛山   当初ここで自刃した隊士らは、村の肝煎である吉田伊惣次が麓の妙国寺に仮埋葬された。その後、さざえ堂裏のあたりに墓があったそうだ。大正末に、元白虎隊士で、東京帝国大学総長になった山川健次郎らにより、現在のような形になったらしい。改修工事の際は、工事資金の問題や、飯盛山の土地の問題などいろいろとあったらしい。現在、飯盛山を所有されているのは、飯盛さんというかた、宇賀神堂となりの店のかたに教えていただいた。東京朝日新聞の飯盛山の工事に対し、環境を破壊するものだといった記事に対して、「白虎隊の事蹟は士気を鼓舞するの資料として云々」と反論したはなしは、当時話題になったらしい。  兄は山川大蔵(浩)、妹は、鹿鳴館の華となった山川捨松。大蔵は、包囲された城に入るため一計を案じ、彼岸獅子の楽隊を先頭にはいったといわれる。籠城戦では家老として総指揮をとる。    佐原盛純作による白虎隊の詩 会津では今でも多くの人が知っている  白虎隊 びゃっこたい  佐原盛純   さわら もりずみ  少年団結白虎隊 しょうねん だんけつす びゃっこのたい  国歩艱難戍堡塞 こくふ かんなん ほうさいをまもる  大軍突如風雨来 たいぐん とつじょとして ふうう きたる  殺気惨憺白日晦 さっき さんたん はくじつ くらし  へい鼓喧 震百雷 へいこ けんてん ひゃくらい ふるう  巨砲連発僵屍堆 きょほう れんぱつ きょうし うずたかし  殊死衝陣怒髪竪 しゅし じんをついて どはつ たつ  縦横奮撃一面開 じゅうおう ふんげき いちめんひらく  時不利兮戦且卻 ときに りあらず たたかい かつ しりぞく  身裏創痍口含薬 みには そういをつつみ くちにくすりをふくむ  腹背皆敵将安之 ふくはいは みなてきなり はた いずくにかゆかん  杖剣間行擧丘愕 けんをつえついて かんこう きゅうがくをよず   南望鶴城烟   みなみ つるがじょうを のぞめば えんえん あがる  痛哭呑涙且彷徨 つうこく なみだをのんで かつ さまよう  社稷亡矣可以巳 しゃしょく ほろびぬ もってやむべしと  十有九士屠腹死 じゅうゆうきゅうし はらをほふって しす  俯仰此事十七年 ふぎょうすれぱ このこと じゅうななとせ  畫之文之世稍伝 これをえにし これをふみにして よ ようやく つとう  忠烈赫赫如前日 ちゅうれつは かっかくとして ぜんじつのごとし  圧倒田横麾下賢 あっとうす でんおう きかの けん  白虎隊 島田 磐也 作詩 古賀 政男 作曲 (コロンビアレコード 霧島 昇唄)   1.戦雲晦く 陽は落ちて 孤城に月の 影悲し 誰が吹く笛か 識らねども 今宵名残の 白虎隊   2.紅顔可憐の 少年が 死をもて守る  この保塞 滝沢村の  血の雨に 濡らす白刃も  白虎隊  (詩吟)南鶴が城を望めば 砲煙あがる 痛哭涙を飲んで且彷徨す 宗社亡びぬ 我が事おわる 十有九人 屠腹して僵る  3.飯盛山の  山頂に 秋吹く風は  寒けれど忠烈今も  香に残す 花も会津の  白虎隊   せんうんくらく ひはおちて こじょうにつきの かげかなし たがふくうえか しらねども こよいなごりの びゃっこたい  こうがんかれんの しょうねんが しをもてまもる このとりで たきざわむらの ちのあめに ぬらすしらはも びゃっこたい  みなみつるがじょうのぞめば ほうえんあがる つうこくなみだをのんで かつほうこうす そうしゃほろびぬ わがことおわる じゅうゆうきゅうし とふくしてたおる   いいもりやまの いただきに あきふくかぜは さむけれど ちゅうれついまも かにのこす はなもあいづの びゃっこたい