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鶴ヶ城  つるがじょう   2000/05/05他  福島県会津若松市追手町1-1  鶴ヶ城、会津若松城、黒川城。 梯郭式平山城。主な改修者蒲生氏郷、加藤明成。黒川城といわれていたのを蒲生氏郷が「鶴ヶ城」と呼び城下を若松と名付ける。赤瓦の天守閣











春の鶴ケ城 廊下橋





元旦の復元天守閣





蒲生氏郷の時代 7層天守閣 (神指城跡にあったパンフレットより)

籠城戦後の鶴ケ城(日新館展示より)

二の丸と廊下橋



三の丸から二の丸へ入る。  東門。

二の丸と東門

二の丸の井戸

二の丸か帯郭に掛かる廊下橋

廊下橋からみる内堀  帯郭に向かって右側

廊下橋からみる内堀  帯郭に向かって左側

廊下橋と廊下橋門

帯郭  廊下橋門

帯郭

帯郭より見上げる天守閣

帯郭



武者走り。 城内への大手門となる太鼓門の渡り櫓や、帯郭の石垣の上への昇降ができるよう、左右に分かれた石段。)

鐘撞堂(かねつきどう)。 時守が昼夜時刻を城下に報じた。戊辰の役には、開城まで時を報じ味方の士気を鼓舞した。

蔵跡と水路跡。 露出している石の列は、二棟の蔵の基礎石と水路跡。

帯郭の井戸

太鼓門。 北出丸から本丸に通じる大手門。胴の径1.8mの大太鼓があった。藩主の登城や非常事態等の合図に使用。

帯郭から裏門を通り本丸に入る。裏門 本丸埋門(うずみもん)。  本丸に通じる枡形の城門。 低い門構え。1639年の改築前は表門。蒲生時代の表門 改築後は裏門となり、本丸奥御殿の勝手口となった。

天守閣

干飯櫓と走長屋と天守閣と本丸御殿跡

対面所跡

御三階の石垣。  楼閣状の建物。  密議を行う場所として使用。 七日町の阿弥陀寺に移築されている。 石垣は再移築。

藩主御居間の庭跡

藩主御居間の庭跡前の井戸

茶室麟閣。 千利休の次男 少庵が蒲生氏郷のため建てた。

荒城の月碑

茶壷櫓から見る天守閣

茶壷櫓  櫓には茶器が収められていた。 武器の収容をも目的とした二重の塗込櫓。

茶壷櫓から廊下橋を見る。 石垣は高さ20m。 扇勾配で「忍者落し」ともいわれる。

茶壷櫓から廊下橋側の土手を見る。

廊下橋門

廊下橋門跡方から茶壷櫓方向の内堀

月見櫓の跡。 二重の塗込櫓で武器が収められた。月見の場所。城下南方の湯川や天神橋方面の搦手の櫓。

月見櫓から干飯櫓方向の内堀

月見櫓から干飯櫓方向の土手

干飯櫓

表門から見た干飯櫓と走長屋

表門(鉄門くろがねもん)。 帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門、北向きの多聞櫓城門。



干飯櫓から見た表門

本丸御殿跡

走長屋と天守閣

馬洗石 馬の口洗いのための石

北出丸。 1639年に造られた。本丸を守る重要な出丸。

椿坂 太鼓門から見た北出丸

北出丸からみる太鼓門と椿坂

椿坂より見る内堀 日新館のあった方向

武徳殿の近く

追手門

追手門

追手門近くの内堀

西出丸

西出丸から西中門に向かう梅坂

西追手門と西出丸駐車場

西出丸駐車場近くの内堀

西出丸駐車場から西中門を見る

内堀 内堀の向かいに日新館があった

内堀

石垣と内堀



鶴ケ城関係年表  1189年 三浦義明の子、佐原義連(さわら よしつら)、源頼朝の奥州藤原氏討伐に従軍。会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡の会津四郡を与えられる。長男 盛連;家督を継ぐ。2男 經連;耶麻郡猪苗代に住む。3男 廣盛;河沼郡北田に住む。遺塁あり。4男 盛義;河沼郡藤倉に居館跡有り。5男 光盛;盛連あと家督を継ぐ。会津芦名氏の祖。6男 盛時;耶麻郡下三宮に住む。古塁有り。7男 時連;耶麻郡新宮に住む。芦名光盛 光盛を会津芦名氏の祖という。芦名泰盛   芦名盛宗  芦名盛員   1384年 葦名直盛によって東黒川館が築かれる。 芦名詮盛   芦名盛政   芦名盛久   芦名盛信   芦名盛詮  芦名盛高  芦名盛滋   芦名盛舜   1543年  葦名盛氏が改築し、黒川城とよぶ。 1584年  芦名盛隆、家臣に殺害される。 芦名亀王丸  1585年 5月 伊達政宗、会津領檜原口に進攻。 11月 伊達政宗、二本松の畠山義継を攻める。芦名氏は佐竹、白川、最上氏らと連合して安達郡人取橋で伊達軍と戦う。  1586年 二本松の畠山義継、伊達政宗に攻略される。芦名氏の当主亀王丸、病没。 芦名義広  1587年 常陸の佐竹義重の次男白川義広、芦名氏の家督を継ぎ、黒川城に入る。  1589年 芦名義広(軍16,000人)、摺上原(すりあげはら)で伊達政宗(軍23000人)と戦い、敗れて常陸に敗走する。芦名氏、滅ぶ。政宗、黒川城に入る。  1590年 伊達政宗、小田原の陣に参着、豊臣秀吉に謁する。秀吉、奥羽仕置きのため黒川城に到着。   政宗、小田原遅参の罰として米沢に移される。替わって会津・白河・石川・岩瀬・安達など42万石の地を蒲生氏郷に与える。  1591年 蒲生氏郷、一揆の鎮定や九戸政実の乱を鎮めた功により、加増を得て92万となる。   1592年 蒲生氏郷、黒川の地名を若松と改める。城の全面的な改築工事を起こす。   1593年 蒲生氏郷が天守閣を築く。「鶴ヶ城」と改める。本丸中央に7層の天守閣をおく。本丸・帯曲輪を内濠で囲み、東に二の丸、三の丸を出す。  櫓・多門・馬出しなどを備える。城壁は高く、濠は深くし、本丸には居館としての本丸御殿を構える。  1595年 蒲生氏郷死去。蒲生秀行、家督を継ぐ。  1598年 蒲生秀行、宇都宮18万石に移される。上杉景勝の居城となる。  1600年 上杉景勝、石田三成と通じて関が原の戦いに敗れる。   1601年 上杉景勝、徳川家康により米沢30万石に移る。蒲生秀行、宇都宮から再び会津に入城。会津4郡と仙道諸郡の60万石を領する。   1611年  会津地方の大地震。鶴ヶ城石垣が崩れ、天守閣も傾く。  1612年  蒲生秀行病死。蒲生忠郷継ぐ。   1627年  蒲生忠郷病死。加藤嘉明伊予松山から会津40万石を領して鶴ケ城に入る。   1631年  天守閣を7層から5層に改修。西出丸・北出丸も増築してほぼ現在の姿になる。  1643年  加藤明成、封地を幕府に奉還する。  徳川氏の親藩である保科正之(ほしな まさゆき)(徳川三代将軍家光の弟)が出羽最上から会津23万石に封ぜられる。 保科正経 松平正容   1696年 保科正容、徳川一門の松平姓と葵の紋を賜る。  松平容貞 松平容頌  松平容住  松平容衆  松平容敬  松平容保(まつだいら かたもり)   1862年  松平容保、京都守護職に就任する。会津藩兵を率いて入京。 1863年  松平容保、参内して孝明天皇に拝謁する。  1864年  禁門の変おこり、会津藩兵奮戦する。  1868年 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍敗れる。容保、将軍徳川慶喜を守護して大阪から江戸に帰る。  2月 容保、江戸詰めの家臣とともに会津に引き上げる。 3月 容保、家督を喜徳(将軍慶喜の末弟)に譲り、謹慎。会津藩、軍制改革を行い、藩境の守備にあたる。  5月 奥羽越の列藩、同盟を結んで西軍との抗戦を決める。 7月 会津藩らの同盟軍が守備する白河城、西軍の手に落ちる。  8月22日 猪苗代城を陥れた西軍、母成峠を抜いて十六橋を渡り、戸ノ口原に進撃。会津藩交戦するも退却。  8月23日 西軍、若松城下に迫る。婦人子供500人が篭城したときは、藩兵はほとんど藩境の防備に出ていた。前線の会津藩兵、退路を断たれる。  戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊の少年ら、飯盛山で自刃。 この日から鶴ケ城の籠城戦が始まり、藩士家族らの殉難相次ぐ。  9月14日 西軍の鶴ケ城総攻撃はじまる。  9月20日 容保、重臣会議をひらき開城の意を告げる。  9月21日 開城の意を家臣一同および城外諸隊に通達。西軍、砲撃を中止。  9月22日 鶴ケ城開城。会津戊辰戦争終わる。容保父子・照姫、城外の妙国寺に謹慎。  9月23日 城兵、猪苗代に移される。 9月24日 鶴ケ城明渡す。 1869年  会津藩家老萱野権兵衛、藩の戦争責任を一身に負って切腹。   1870年  会津藩士4700名の永禁錮が解かれ、旧南部3万石に移住する。鶴ケ城の取り壊し始まる。 1874年  陸軍省の命令で天守閣をはじめ建物すべてが取り壊される。  1890年  残った城跡が競売にかけられたが、旧会津藩士遠藤啓士が私財を投じ落札。 彼は「会津はわがふるさとである。  城跡は特に戊辰の逆境にあったとき、弾煙、硝雨の間に幾千の魂魄を留めた古戦場である。 これを保存して千古につたうべし」遠藤は城跡を入手すると、松平家に献納した。松平家は若松市に寄贈する。   1934年  「若松城跡」として国の史跡の指定を受ける。 1965年   天守閣が再建され、当時の姿を再現する。天守閣内は会津に関した資料が展示されている。  成美堂「会津鶴ケ城」 阿井景子著等を参考に作成